読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

知られてはいけない世界

それとも、初めからこんなことはなかったのかもしれない。

「こんなところにあるのかねぇ」
「あるんでしょうねぇ」

秋も深まり、澄み切った空気に寒気が漂い出した頃、鬱蒼とした山に一本くねくねと伸びるアスファルトの道を、後輩で先輩の同僚が運転するワンボックスの軽でゆっくりと登っていた。対向車とすれ違うこともなく、後ろを走る車もない。カーナビが示している目的地点に道は無かったが、この道の先であることは間違いない。他に道がないのだから。

20分ほど走っただろうか、だんだん道が細くなっていく。頂上近くまでやってきたようだ。道の先に障害物が見えた。嫌な予感は的中した。通行止めの看板と柵だった。カーナビが示す地点はその少し先だった。車から降りて柵の向こうを見渡したが、それらしいものはなかった。

カーナビに入力した住所を確認する。間違ってはいなかった。通行止めの先に目的地があるということは考えられない。後輩で先輩の同僚と少々の問答があったが、とりあえず引き返すことにした。

周りに目を配りながら少し下ると、ゆったりとした右回りのカーブの中腹あたりに、舗装されていない一本の脇道を見つけた。見つけてしまえばそれほど目立たない道ではなかった。最初に通った時に気がつかなったの不思議に思えるほどだ。轍もある。おそらくこの道だろう。私たちは若干の興奮を分かち合いながらその道へと入っていった。

緩やかな坂を少し進むと視界が開けた。木々を切り拓いて創った平地は見渡せるほどの広さで、その長方形の中に粗末な長屋が畝のような並んでいる。集落というには規模が小さい。店舗も田畑も無い。画一的な建物と規則的な配置は公共施設のそれだった。四辺は少し高台になっており、山道から脇道を覗いたくらいでは見つけられない造りになっている。こんなところに人が住んでいる。非現実的な景色に見入っていた私は、奥の高台から二人の男がこちらの様子を窺っているのを見つけた。こちらの視線に気づいたのか、高台の一人が小走りでこちらに向かってきた。

「にいちゃん達、工事の人か?」

つるりと禿げ上がった老人は、屈託のない笑顔で話しかけてきた。歯がほとんど無い。右目は不自然に閉じている。もう一人の男は相変わらず遠くの高台からじっとこちらを見ていた。

「そうですけど…」
「俺んとこだ、ほらこっちこっち」

老人は私たちを待っていたようだ。この家には私が行くことにした。後輩で先輩の同僚は、別の畝へ向かった。

老人は落ち着きがなく、道中も色々と話しかけてくる。聞くと、ここで生活をしているといわゆる下界の人間との接点がほとんど無くなるらしい。だからこういう機会に下界と接点を持てることが楽しみなのだと言う。なるほど、と思った。しかしここに住む人たちは一体どんな生活をしているんだろう。近くにはコンビニどころか建物すらない。この老人は車も自転車も持っていない。定期的にバスなどがでているんだろうか。とても気になったが、聞くことはできなかった。

「きたないところですが」

恐縮しながら老人はドアを開けた。いたって普通の1Kは綺麗に整頓されていた。といってもモノはほとんど無い。コタツ、座椅子、14インチほどのブラウン管テレビ、同じくらいの大きさのテレビ台、テレビ台には少しの雑誌、コタツの上にはスポーツ新聞、ガスストーブそれくらいのものだった。掃除も行き届いていた。棚の後ろやテレビの裏のホコリやゴミも掃除されていた。工事のために事前に掃除をしておいたのだ、と老人は得意げな子供のように笑った。すぐに終わる簡単な工事だが、こういう気遣いがとても有り難い。

老人はお茶まで出してきた。工事はとっくに終わっている。あとは説明だけだったが、名残惜しそうに話してくるので、ちょっと話をすることにした。右目が無いこと、家賃が三千円だということ、ベニヤ板のような薄い壁は風でガタガタ音を立ててること、隙間風がとても冷たくて眠れないこと、昔のこと、色々と話してくれた。それはどれもやりきれない、と思うような内容だったが、老人は悲しそうな素振りもなく、愚痴を吐くわけでもなく、無邪気に笑って話した。帰り際、老人は丁寧に頭を下げた。みかんを二つくれた。ドアを開けると同僚が立っていた。戻りが遅いので様子を見に来たところだった。老人はドアから顔を出すと、私たちにもう一度お礼を言ってきた。

大したことをしたわけではないのに、丁重にお礼を言われ、みかんまでもらった。私は罪悪感を覚えながら荷物を片付ける。この気持ちはなんだろう。老人らは生活保護を受けている。しかしこの生活は最低限の文化的なものと言えるだろうか。携帯電話もない。買い物も自由に行けない。雨風をしのげる最低限の住まい。生活保護をもらっている人について、その生活について、私は知らないことが多すぎた。こんなところで暮らしている人たちがいることなど、想像したこともなかった。この老人たちは、テレビやネットで叩かれているような生活保護受給者とは全く違う世界に生きている。だからなんだというわけではないが、なんとも言えないわだかまりが残った。老人たちとて好きでこんなところにいるわけではないだろう。止むに止まれぬ事情があるだろう。しかし老人たちの声は誰にも届かない。いや、声を上げる必要すら感じていないだろう。このいうな世界があることは公には知られない方がいいことなのかもしれない。誰もそんなことを知りたいとは思っていないのだろう。老人たちも、そう感じているのかもしれない。彼らには彼らの世界があり、それは私たちの世界とはあらゆる意味で違う。そして、こうした不遇な人たちへの福祉の現実は確かに存在する。私はそこにある格差を今、この目で見たのだ。

私はどうしようもない無力感と少々の優越感と未来へのとりとめのない不安を抱いて車に乗り込んだ。集落を出ると、いつもの世界が広がった。振り返ることはしなかった。

窓の外を流れる木々をぼんやりと眺める。目も歯もない老人の無邪気でそれでいて寂しそうな笑顔が頭から離れなかった。

「あのじいさんからみかんもらったよ」
「あ、いらないっす」

後輩で先輩の同僚は、私が手に持ったみかんを見ると一瞬顔を歪め、みかんを拒絶した。そして私たちはなんでもない日常へと帰っていった。みかんは思いの外、甘かった。

今から思えばあの脇道を一度で見つけられなかったのは、日常と現実の境目でハレーションを起こしていたからなのかもしれない。
広告を非表示にする