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ネットの楽しみ方 ー詭弁のセンスー

あるニートがいつものように散歩に出かけふらっと駄菓子屋を訪れる。そこは彼が子供のころ、二十年ほど前からある駄菓子屋だった。そんな記事を読んでいた。

記事の前半に、駄菓子屋の店内の写真が貼り付けてある。これを見て私は懐かしさを感じ、子供の頃、足繁く通った駄菓子屋に思いを馳せた。土間を改装した店舗には、ストⅡやらテトリスやらのテーブル型のアーケード機が並び、おでんやアイスが売っている。土間に面した畳部屋には駄菓子が並び、ばあちゃんが仏像みたいに鎮座して猫を抱いている。奥の部屋からは時代劇のセリフが流れてくる。ジジイがテレビでも見てるんだろう。そんな店は、とっくの昔に無くなった。ばあちゃんもさすがに逝ってるだろう。貼り付けてある駄菓子屋の店舗内の写真は、小綺麗だった。そのまま読み進めていくと、いつのまにか駄菓子のamazonリンクだらけになっていた。文章も、いつの間にか駄菓子の思い出を回想するものになっている。私は立ち止まり、後ろを振り返る。あれ?ここはどこだっけ?

ふと思い立ち、記事冒頭の駄菓子屋の写真を画像検索にかけてみた。すると同じ写真の記事がたくさんでてきた。彼が行ったのはこの店ではなかったのだ。文章と写真の流れから、写真の店舗に行ったものと思い込んでいた。まあそうだよな、と思った時、全ての文章が嘘に思えてきた。つらつら続く駄菓子の宣伝とamazonリンクがやかましくまとわりつくポン引きに見えてきた。絶対にリンクを踏んでなるものか!もしかしたら、本当に駄菓子屋に行ったのかもしれない。駄菓子屋はあるのかもしれない。しかし、私にとっては既に事の真偽はどうでもいいことだ。それが事実かどうかということよりもこれが事実であってはいけないという私の感覚を信じたい。

それはなぜか。

二十年前の駄菓子屋が今も営業していることに感心したのであれば、その感動を伝えたいのならば、その写真を撮って貼っつけるのが筋だからだ。一億歩譲って写真を撮ることに、公開することにはばかりがあったとしても、どう転んでもネットで拾ってきた小綺麗な駄菓子屋の写真をそこに行ったかのごとく貼り付けるような発想にはなるわけがない。
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なぜわざわざこの画像を使ったのだろうか。それが解せない。せめて汚い駄菓子屋の写真を探すくらいのことはしてほしかった。
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こんな

思い返すと、これまでもネットである感動話が話題になってシェアが拡がっていると思ったらそれがデマということが判明したり、外国から話をパクってきただけだったり、それをさらにデマに加工したり、そんな風に騙って感心を惹こうとする行為がごろごろしている。

ネットは詭弁で溢れている。それを否定するわけではない。騙すならキッチリ騙してほしい。嘘でもなんでもいいからキッチリ感動させてほしい。実話っぽくしようとしてボロが出るくらいなら最初から創作話としてやってほしい。騙すのなら、騙し通す気概が欲しい。それがバレた時は、相当のけじめをつけて欲しい。その覚悟を持って、騙しにきて欲しい。騙されるのなら気持ちよく笑って騙されたい。「あの時は納得したけど、今になって考えてみたら変な話だな」「こりゃ一本取られた」と照れ笑いできる一陣の風のようなセンスある詭弁になら何度でも騙されたい。

私が問題としているのは詭弁のセンスだ。駄菓子を買わせて配当を受け取りたいという気持ちは否定しない。その行動を起こさせようとするには、どうしてもそのやり方じゃなきゃだめだったのか?他に方法はなかったのか?ということを問いたいのだ。問わないけど。

とはいえ、こういう粗のある記事を間違い探しをするように読むのも結構楽しい。嘘を嘘と見抜く為には、目にする記事は全てまず疑ってかからなければいけない。それでも騙されたり、いつの間にか偏見の芽を植え付けられている。それだけは忘れないようにしたい。

どうせ吐くなら気持ちのいい嘘を吐きたい。
どうせ詭弁を吐くのなら胸がすくような詭弁を吐きたい。
吐かないにこしたことはないんだけど。

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