読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

許すことと認めることの違い

雑記
イラっとすることはよくあることだから、いちいち取り上げて言及したり一言申したりしてると消耗する。だからと言ってすべてのことに対して何にも言わずににっこり笑って水のように受け流すことなんて、そんなことはお釈迦様だってできない。むしろ、そんな無理を通そうとすることのほうが消耗してしまう。

で、バカボンの「これでいいのだ」っていうセリフをもってきて価値観の違いを許すなんていう解釈をしてるボンクラがいて、お察し通りの方なんだが。その方のそれこそ赤塚漫画に出てくる人のような真正なアレっぷりに、思わず反応する。現実は皮肉だ。

価値観が違う人に対して「あなたは価値観を変えましょう」なんて偉そうに宣う人が、その舌の根も乾かぬうちに「価値観の違いを尊重しましょう」だの「価値観の違いを許しましょう」だの信仰宗教の幹部のごとく謳っているんだけれども、どうして価値観の違いを認めようとしないんだろうか。

で、「許す」と「認める」っていうのは全く意味が違う。あなたが人を許す時がどんな時か、考えてみてほしい。その「許す」という行為の中には「相手が悪い」「相手が間違っている」という意味を含んでいるだろう。自分が面白くないと思うタレントを楽しそうに見ている人を許すということはない。

「それでも私は許しますよ」というのは一段上からの視線なんだ。当たり前だけど価値観っていうのは人によって違うわけで、それは時代やら人間関係やら経験やらの環境によって育まれるものだから、例え自分のクローンであっても全く同じにはならない。そういった本質的な違いを許すという行為で解決しようとすることがいかに無知で傲慢な行為か。

では、相手の価値観を認めるということはどういうことか。それは相手を受け入れるということだ。

「私の嫌いな芸人を楽しそうに見ているが、何も言わない」

「面白いと思うところを聞いて相手の好みを知ろうとする」

相手を認めるということは、我慢するということでもある。ただ、嫌だ嫌だと我慢しているだけなら、それは辛いことかもしれない。しかし相手のことを知ろうとしたり、相手の価値観を取り込んだりすることは、考えの幅を広げてくれる。それは我慢の中からしか生まれない。

価値観が違う意見を受け入れた時に、何か新しい視点を発見したり、自分の核について考えを深めることができる。一度でもそういった経験があると、相手の価値観を許すなどといった見当違いな自惚れに陥ることはない。

で、私がわざわざ自分と違う価値観に積極的にアクセスするのは、それによって、もやもやした頭の中から自分の考えや、価値観の輪郭がくっきりと浮かび上がるからだ。それは自分の頭の中だけでできることではない。

だから自分と違う価値観は大いに認めていきたいところだが、許せない価値観を許すことはない。