好きを嫌いで伝えられた時、表現が本懐を遂げる

例えば、定食屋の暖簾をくぐり、席についてメニューを眺める。私はとんかつが好きなのでまず「とんかつ」「カツ」という言葉を探す。そんな時に頭の片隅ではこんなことを考えている。「トマトはついてくるんだろうか?」

私はトマトが嫌いなので、カツが盛られた皿の縁にトマトが添えられていると申し訳ない気持ちになる。食べないからだ。なんならトマトが触れた部分のキャベツごと残す。それくらい嫌いだ。そうなのだが注文の際に「トマトはついてきますか?」と聞くことにはなんとも言い難いはばかりがある。
事前に商品サンプルを飾ってあり、トマトがついてくることがわかっている場合でも「トマトは無用」と伝えられないことがある。なんとなくうしろめたさを感じる。それは、どうせ食べないことに感じるうしろめたさというものよりも強い場合が多い。それは相手に面と向かって「嫌い」を伝えることに対するうしろめたさなのかもしれない。

例えば好きな相手と一緒にいる時に、「好きだ」ということにも同様にはばかりを感じる。それは、たいていの場合、恥ずかしさからだ。しかし「どこがどう好きなのか?」という問いに対する自分の思いを確かな言葉で伝えられないやるせなさ、という気持ちも少なくない。そういう意味では「好きだ」ということは簡単だ。口にするだけでいいのだから。それで良かったりする場合もある。ただ、それで自分の「好き」が表現できたとはどうしても思えないのは、年を取ってしまったせいなのかもしれない。好きに対する飽くことの無い表現欲とその語彙の拙さは、いつも私を悩ませる。

「好き」を伝えるのに「好き」
「良い」を伝えるのに「良い」
「嫌い」を伝えるのに「嫌い」
「悪い」を伝えるのに「悪い」

これも表現と言うのだろうが、あまりにも原始的に思える。それは「好き」のなかの自分の感覚を取り出していると言えるのだろうか。なにかの結果や結論に対しての瞬発的な反応として、もしくは表現のとっかかりとして独白的に用いる分にはそれでいいのかもしれない。しかし、その感覚や感情を人に伝えようとする場合、その感情を表す直接的な言葉をそのまま使うことは自分の感情に向き合っているといえるのか。相手に伝えたいという意思はあるのだろうか。そういった直接的な表現から私たちは相手の意思をどう感じ取るのだろうか。

こういった直接的な表現をするにあたっての文脈の必要性は、物語やバラエティ番組を見るとよくわかる。ただ「好き」や「嫌い」連呼しているような作品に価値が付加されることは無い。いかに「好き」と言わずに好きを表現するか、「嫌い」といわずに嫌いを表現するか。そのようなものが表現であり創作なんだろう。何かを表現する時に、直接的な表現をどのように使うか、どのように間接的な表現を用いるか。そういった遊び心に対する真剣さが娯楽性を産むのではないか。

日本には新しいものから古いものまで色々な行事がある。行事に参加することで自分の気持ちを伝えたり、伝えなかったり、何かを願ったり、祝ったり。それがどのような目的で作られた行事だろうと、たとえ本来の目的に依拠しないと思われる発展を遂げようと、個人の表現欲を充足させるための仕組みが機能していれば、それでいいのだろう。それこそが求められているんだろう。

表現というのは、言葉だけではどうにもおぼつかない。だからこそ声色や身振りや緩急を用いない文章が芸として成立しているのだろう。こうして考えていて今さらながらようやく思い至った。文章は表現におけるストロングスタイルなんだ。