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何もない部屋に住んだ記憶は、

兄貴の学習机の中に輪ゴムで留められたビックリマンシールの束を見つけた。スチールの工具箱は、子供の頃ミニ四駆ツールボックスとして使っていたものだ。部屋の中には色々なものがある。

この間テレビを見ていたら、ミニマリストと称する男の生活が放送されていた。部屋には小さなソファと寝袋。小さな机があったかもしれない。タブレットで動画だかなんだかを見ている。洋服も最低限の枚数に抑えていた。ドラえもんの登場人物が、毎度毎度同じ服を着ているのもこういうことなんだろうか。それはさておき、例えばテレビで庶民の部屋を撮影する場合っていうのは大抵、家電から本から小物から、物がいっぱいある。なんならゴミもいっぱいある。どちらがいいとかそういうことではなく、こうやって部屋にたくさんの物がある場合、その物の一つひとつが色んな記憶に紐付いているわけで、そういう物を手に取って色々と過去を想っていたりするのかな、と想像する。人間の脳内を部屋に例えるような話もあるように、そういう混沌としている状態は人間らしいのかな、と思ったりもする。

逆に部屋に必要最低限の物しかない人っていうのは、物自体がないわけだから所有物からこじんまりとした過去の記憶を想起することがあまりないのだろうな、と想像する。それはそれでスッキリとしていていい気持ちなのかもしれない。しかし、ふいに過去の記憶や郷愁がやってきた時、その想起を手助けする物が手元になかった時、虚しみに苛まれるのではないかと不安にもなる。何事もほどほどがいいということなんだろうか。この部屋を脳内に例えると、一体どういう解釈が適切なのかと思う。それはひとそれぞれなんだろうが、ちょっとした共通点くらいは見いだせるかもしれない。

「そんなものはテレビの演出だ」というひともいるかもしれないし、そうなのかもしれない。
しかしそれはそれで上記の味わいとはまた別の味わいがある。一粒で二度美味しい。

部屋をきれいに保つことは大事なことだけど、部屋に何も置かない生活は記憶を体験で頭と体に紐付けるしかない。それが知識であればそれでいいのだろう。社会生活は人付き合いの生活なのだが、それを全て記憶して自由に取り出せるほどの人間はごく限られている。そうなると物がない以上、人に紐付けるしかない。とはいえ、自分も含めてずっと同じところに住みつづける人間はそうそういない。環境も変わる。久しぶりに誰にかにあって昔話に花が咲くことはあるかもしれない。しかし一人でいる時のその場所での記憶というのはどのように更新されていくのだろうか。ずっと時間が経って昔住んでいた建物や場所を訪れた時、その場所からどんな記憶が想起されるのだろうか。それは部屋にたくさん物を置いている人とどう違うのだろうか。他人にはなんでもないような小物ひとつに宿した記憶を大切に持っている人とはどう違うのだろうか。その記憶は取るに足らない、特に必要ではないものと言ってしまっていいのだろうか。多ければ良いというわけではないかもしれないが、少なすぎるのも寂しい。

ゴム止めを外し、ビックリマンシールをつらつらと眺めている。レアなシールは高く売れるかもしれない。しかし、お助けキャラや悪魔ばっかりでキラキラシールは値崩れしている物か、状態が悪い物しかなかった。レアなシールは、すっかり換金されていたのだった。
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