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子供には、他人の財布の中身を見たがるさもしい大人にはなって欲しくない

雑記
これはないわーと思ったので、ほぼ全文を引用しながら私の思ったことを書きます。

その子たちの家庭が金銭的に余裕がなく、ランドセルを買えずにその子がリュックサックで登校しているとしたら、これほど残酷なことはないと思った。
こういった憶測から始まったようですが、妄想が進むにつれてその矛先が変な方向に向かっています。

■「○○くんはなんでランドセルじゃないの?」
ランドセルというのは安くない。平均購入価格を調べてみると、約4万円だそうだ(ソース:ランドセルNAVI)。個人的な感覚で言えば、6年間使うものだから、長期的な目線で見れば4万円でも高くはない買い物だし、子供のめでたい小学校入学祝いと考えれば、購入へ踏み切ることにそこまで弊害はないように思えるが、4万円だって出せない家庭はあるだろう。母子家庭だって増えてきているし、最近は、給食費も払えない家庭もあるとニュースになっていた。
ランドセルはとても頑丈です。結構乱暴に使っても使用不可能になるのは、まれです。仮にそうなっても、兄弟、親族のお下がりを使うことができます。私の場合壊れたわけではなく、ボロくなったので近所の家庭の使わなくなったランドセルを譲り受けました。このようにお金がなくともなんとでもなるのです。こういう最低限の助け合いこそが社会で生きることだと思います。仮に四万円払えない家庭がほんとにあったとします。生まれてから小学校に上がるまでの6年間どういう出費があるのかっていうのはおそらくわかっているはずです。その上で親がランドセルを用意できなかったとしたら、それはとても残酷で愚かな話だと思います。虐待と言っていいんじゃないでしょうか。お金がなくても近所づきあいがあれば、どこかからお下がりのランドセルを手に入れることができたはずです。そういったことを揶揄する空気というのは当時にもありましたが、昨今はネットによって思考が可視化できるようになっっためか、多くなったように感じます。こういった意見がでてくるのも、そういった変化の負の面なのかな、と思います。ランドセルは小学生専用のものなので、こうした譲り合いは私達が知らないところで今もあるはずです。ネットオークションやフリーマーケット出したりする人もいるでしょう。それでも通常よりは安く買い求めることができます。

どんなバッグを使っていたのかはわかりませんが、宮田さんが悲しい現実を妄想してしまうくらいには、安っぽくてボロいバッグだったのでしょう。それを6年間使い続けたとして、何回壊れるでしょうか。その総額はいくらでしょうか。ランドセルよりも高くなることは断言できます。小学生が毎日持っていく教科書類はとても多いです。それらを収納できる大きさと、長年使用できる耐久性、体への負担を考えると、ランドセルが一番適しています。

しかし、ランドセルを買ってもらえずに、リュックサックで登校する子供からしてみればどうだろう。小学生ぐらいの子供は、他人と少しでも違うことがあれば、すぐに指摘し笑いものにする。
「○○くんはなんでランドセルじゃないの?」
「○○くんの家は貧乏だからランドセルが買えないんだよ」
こんな会話が教室の中で繰り広げられるのは容易に想像できる。
ランドセルを買ってもらえない子供は、クラスの中でどれほど嫌な思いをしただろうか。まだ物心ついて間もない頃から、家庭環境の現実を突きつけられて、その心に負うダメージはどれほどだろうか。私は想像するだけで涙が出てくるくらい苦しい。
貧乏が揶揄されることは昔からありました。子供は残酷ですがカラッとしています。江戸っ子みたいですね。五月の鯉の吹き流しです。もちろん性格悪いネチネチしたガキもいるでしょうけど、そうやってバカにされたら言い返すなり、喧嘩するなりすればいいんです。子供はそうやって成長するんです。それでガツンと叱られて終わりです。ちなみに私の頃は、ランドセルじゃないバッグを持ってきている人を羨望の目で見ていましたりもしました。
だからこそ、せめてランドセルだけは、すべての義務教育を受ける子供に、国や地方自治体が一律に支給してあげてほしい。ランドセルは毎日使うものだし、非常に目立つものだ。私が小学生のときに、同級生でボロボロのお古を使っている子もいたが、そんな状況もなくしてほしい。小学校に入学したら、無償支給の教科書と同様に、ピカピカのランドセルも支給してあげることはできないのだろうか。
ここからさらにおかしくなってくるんですよ。乞食思想っていうんですか、こういうの。ボロボロでもいーじゃないですか。他のバッグで登校して大人に可哀想な目でみられるよりは。
 

■ランドセルをもしも国が無償支給するとしたら?
文部科学省のデータによると、2015年度の国公立の小学校の入学者数は約108万人だそうだ。このすべてに4万円のランドセルを支給するとなると、毎年約432億円の財源が必要となる。
参考までに、平性27年度における我が国の国家予算の内、『文教及び科学振興費』は5兆3,613億円。そのうち、教科書の配布などに充てられる『教育振興助成費』は2兆3,716億円だった。
ここで、このようなデータを持ちだしたのは、432億円という数字が、国家予算の中でどれくらいの存在感を放つかということをイメージしてほしかっただけである。
ちなみに、教育振興助成費の内訳もチェックしてみたが、一瞬で無駄な支出だなとわかるような項目は見受けられなかった。
とは言え、国立競技場の建設に2,000億円がつぎ込まれるといったようなニュースが報道された昨今、本当に使うべきところはどこなのか、と考えてしまったりもする。私が調べた限りでは出てこなかったが、議会レベルでも「ランドセル無償支給案」というのは議論されてこなかったのだろうか。
ランドセルを国が支給するって、どうやってその指定ランドセルを選ぶんですか?選ばれなかった業者はどうすればいいんですか?ランドセル業界がぶっ壊れますよ。巨大な利権が発生しますよ。それは2000億はくだらないですね。入札で決まることでしょうから、当然質が低下するでしょう。
茨城県土浦市では、小学生へのランドセル無償支給がなされているらしい。しかし、デザインがださい、と保護者から苦情が来ているよう。問題は尽きない。
その結果 がこれですよ。成長期の子供が毎日背負うものだから親も色々と思うところはあるんでしょうが。結局、だったらあなた方で買い求めてくださいってなりますよね。もし、貧困家庭にのみ無償で提供します、となったらどうでしょう。これは素晴らしい案だ、となるでしょうか?それとも一部だけ優遇するのは不公平だ!となるでしょうか?貧困家庭だとどうやって判断するんでしょうか?それにかかる経費はいかほどでしょうか?そこまでしてでも無償提供したほうがいいのでしょうか?

伊達直人にもらえなかった子どもたち
何年か前、伊達直人児童相談所や養護施設に匿名でランドセルを寄付し、話題になったことがある。動きは全国的に広まり、タイガーマスク運動と言われ社会現象となった。
私はあのニュースを見ていた時、とても心温まるニュースだな、と思ったと同時に、伊達直人にランドセルをもらえなかった子どもたち、のことを考えてしまった。あのランドセルが、その施設の子どもたちよりも少なくて、例えば抽選などで子どもたちに支給されていた場合、抽選に外れた子供はやはりリュックサックのまま登校しなければならなかったのだろうか。
個人的には別にリュックだろうがなんだろうが構わないと思いますし、子供もそこまでめざとく難癖つけることはないでしょう。姑じゃないんだから。リュックを背負う小学生を、どうしても可哀想な子供として見たい宮田さんが一番、リュック登校に差別心を持っているんじゃないかと思ってしまいます。
 
■自分の家庭を理解するのはもう少し先でいい
結局のところ、私が言いたかったのは、小学1年生という多感な時期に、家庭環境を反映させ、他人と区別できてしまうようなシステムをなるべく減らして欲しい、ということだ。杞憂であればそれはそれでいいのだが、もし私がランドセルを買ってもらえなかったなら、おそらくそれは一生忘れられないと思う。成長するに従って、自分の家庭の財政を把握するのは避けられないことだし、必要なことだと思う。しかし、それはもう少し後でいいのではないだろうか。小学校低学年の頃くらい、何も考えずに無邪気に遊んでいて欲しい。そんなことを朝の通勤途中に思った。
これはリュック背負って登校する子供をみて抱いた妄想だったはずです。それがいつのまにか家庭環境を反映させtr他人と区別するシステムと断じられています。これを解決するには財産没収して嗜好品の所持を禁じて、生活用品からなにから全て国が支給するしかありませんね。


私は、ランドセルや服など子供の消耗品は、地域でリサイクルされていると思っていますし、そうすべきだと思っています。少なくとも国が口や金を出すことじゃないし、その必要はありません。仮にやるとしたら、そうした活動を広く奨励することであったり、広報したりして、知ってもらいやすい、行いやすい、そういう環境づくりに働きかけることだと思います。茨城の無償提供のように、地域によってある程度の違いがあるのはいいことだと思います。それが地域の特色というやつでしょう。

他人の財布の中身を気にして勝手に憐れんだり、他人の格好を見て勝手に憐れんだり、そういうのを「さもしい」っていうんです。子供には、そういう大人にならないように金とか格好とか気にしないで大いに遊びまわって欲しいものです。