真面目に語る、ということの難しさ
何が面白かったって真面目に語っているところだ。知識と見識と表現力を持った人が好きなものを大いに語る。聞き手はツボを押さえており、出しゃばることはなく、うまく話を引き出しつつもレールを踏み外すことなく番組を進行していく。これだけで十分面白い。単純なことだが、今日の放送を見てこういった番組が非常に少ないということに気がついた。ストロングスタイルというのはこういうことなんだろう。真面目、というのがあまり良くない意味で使われることが多くなった。そこにはつまらない、という意味も含まれているように思う。真面目とは本来「真剣」「本気」ということを表しているわけで、それ以上の含みはない。いつからか、本気であることが恥ずかしいというような感覚は私が子供の頃、つまりかなり前から持っていた。そういった風潮は今も昔も変わらない。例えば同局で「真剣十代しゃべりば」という番組があって、これは若者が真剣に語る姿が大層滑稽に見えたのだが、ここに答えが潜んでいる。すなわち真剣に語るにはそれに足るだけの知識や知性などの背景が求められるということだ。そういった背景がないと独りよがりになってしまい、それは自然と言動に現れる。語り手の背景は、正直さや誠実さすら彩る。ただ知識や事実を羅列するだけで自分の意見がないものも語っているには拙い。こういった語りではなく騙りとも言えるものがとても多いように思える。
真面目は面白い
真面目に語るということは非常に難しいことだ。お笑いだろうとギャンブルだろうと政治だろうと突き詰めていけば必ず学問にたどり着く。だからどんな世界でも第一人者というのは必ず学問的な背景を持っている。ゆえに語ることができる。学問というのはもれなく普遍性を取り扱うものであるから、誰にとっても面白いものになるはずだ。しかし当事者が直接語ってもうまく伝わらないことが多い。背景の差があまりにも大きいからだ。そこで評論家や解説者、作家の出番が必要になる。ひとつフィルターを通すことで耳障りがよくなる。くだけた表現でユーモアをまじえて語ることができるのも、対象に対する真面目な姿勢があってのことだ。面白いから真剣になるのではなく、真剣だから面白いのだ。
昔の番組のほうが面白いと感じるのは、こういった真剣さに対する捉え方が変わってきているからなのかもしれない。こういった番組こそ、スポンサーがついて大いにやるべきなのだと思う。いかに上手く、多く宣伝を入れてやろうかという番組よりはよほど面白く、スポンサーに対する評価も上がると思うのだが。