ロジックとエモーションのシニカルな関係

血気盛んに上司に食ってかかっていくと必ず「おまえにはまだわからん」といわれた。
それでも腹の虫おさまらずぎゃんぎゃんがなり立てては諌められた。話は聞き入れられずとも、相手を引かせたことに内心得意になったりもした。もしかしたらそれこそが目的だったからなのかもしれないが、自分のことながら本当のところはよくわからない。




感情豊かに行動すれば、即時に反応が返ってくることが多く、それは私にとって良いものであることが少なくなかった。悪い反応が良いきっかけに昇華されることもあった。とにかく印象には残りやすいようだ。

そのまま進めば何も悪いことはないのだがそんなうまい話はどこにもなく、外見の反応を変えることはできても、実際の状況を変えることは至難を極めた。まずうまくいったためしがない。それは論理的に良い方法と結論を導くことができなかったからだった。変化させるためには一定の期間、行動をつづけなければならず、感情の瞬発的な性質とは別の性質が要求される。

しかし、今もって続いている興味は、感情的なものから始まっているものばかりだ。後になってみると理由などなんとでもなる。

感情は、激しさゆえにそれだけではあまりにはかない。感情の具現化には論理が必要だが、その相性の悪さは常に盲目をひきおこす危険をはらんでいる。時には感情自ら論理に形を変えることもある。その分離は容易ではない。

論理にとって感情は忌むべきもので、いずれ感情を抹殺しようと機会をうかがっている。しかし論理は、感情によってしかその範囲を拡がることができないので、それが問題を産む元凶であってもしぶしぶその存在を認めざるを得ない。



年をとってくると、「ああこういうことだったのか」とあの言葉の意味が理解できることがある。
しかし次の日には、また怒りで上書きされることになる。