忘れられる権利

つい先日、飯島愛のブログが閉鎖になるという記事を読んだ。死亡して七年、飯島愛はこの事実にどんな感想をもつだろうか。人が死んだ場合、役所に届けることで社会的にも死ぬ。自ら社会的な死の手続きはできない。前に、死んだ人間の手続きをせず年金を騙し取っていた事件があった。国とはいえ、国民の全てを把握することは、国民の協力がなければできない。もう亡くなった人の歌っている姿を画面を通して見られるのもというのも、よく考えると少し不気味なようにも思える。

私の母は食堂をやっていたのだが、もう十年以上前に店をたたんでいる。今その場所はもぬけの殻になったプレハブ小屋が建っているだけなのだが、Googleマップでは今もその場所には食堂の名前が記載されている。マップに載せてくれと頼んだわけではないが、こういうのはこちらから削除依頼をしなければならないのだろうか。

ネット上には、もう潰れてしまったお店の訪問記や、もう手に入らない物についての詳しい記述など、様々な記事がある。これらも書いた人が削除しなければ基本的には消去されないのだろう。その中にはもう亡くなった人もいるのかもしれない。はてなブログが無くなったら、ここにある記録は全てなくなってしまうのかもしれないが。もし、数十年後の年老いた私が、今の自分の書いた記事に遭遇したとして、私はそれが私が書いたものだと気づくことはできないだろう。窓の縁に積もった埃を見ながら、そんな取り留めのないことを考える雨の日の午後。
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