随筆 糞

玄関を出てすぐの、小さな庭の片隅の雑草の上に、ちょこんと座る糞をみつけた。
毎日というわけではないのだが、またあるんじゃないだろうか、
という不安がなくならない絶妙の間隔をおいて、糞はそこに現れる。
ある程度の研鑽を積むと、それが人のものであるのか否か、すぐにわかるようになる。
マナーや世間体など、我々が社会生活をおくる上での公理ともいえる最低限の前提(共通認識)から演繹法を用いて、または糞を基点とした周囲の状況を観察し、これまでに見てきた糞のある状況とその最初の(もしくは最後の、というべきだろうか)所有者についての事実から帰納法を用いて論理的に蓋然性の高い解を導き出す。これは学問の賜物であり、古来より受け継いできた文化であり、知恵である。
改めて、先祖への敬意の念が湧き上がる。糞を見つめる眼差しが熱を帯びているのを自覚した。空を仰いだ。
もちろん、ブラックスワンは路傍にも存在する。私もそこまで粗忽な人間ではない。
我々の前提を覆す糞の存在は、いつも我々に新鮮な驚きをもたらす。
ああ生理的極限状態における人間の尊厳よ!

何の事は無い、いぬのくそである。
これが野良犬のものでないことは、既に分かっている。心当たりがある。

ーーー
それはいつかの早朝の出来事だった。眼鏡をかけた古希と思わしき男性が連れた犬は、今まさに事に及んでいた。私は怒鳴りこそしなかったものの、乱暴な言葉でその場を制した。何も言わず足早に犬を引きずる背中を、私はただ睨みつけることしかできなかった。震える拳とは裏腹に、忸怩たる思いが私の心を締め付けていた。人生の先輩に対し、とっさのこととはいえ、ああも言葉を荒げてしまえるものなのかと。うつむいた私の眼前には、朝焼けを浴びて瑞々しく輝く糞があった。糞はにっこりと微笑んで、優しく語りかけてきた。

「ええんやで」
「誰も悪うないんやで」

もちろんそんなわけはなく、私は糞をスコップですくい上げて力いっぱい放り投げた。大空に舞った糞は、少しさびしそうに見えた。あるいはそれは私なのかもしれない。糞は稲穂の中に消えていった。
ーーー

私は、古希の男性が犬を連れて歩いてくるのを、いつともしれず毎朝毎朝待ち構えなければならないのだろうか。家の前で糞をされないように監視する。私はこのような日課を受け入れることはできない。
「ここは私有地であり、玄関前です。糞はご遠慮願います」
などといった立て札をこしらえねばならないのだろうか。犬は文字を読むことができないのに?これでは私の家の玄関前が「よく糞をされている場所です」と喧伝するようなものだ。挙句、その立て札の前に糞などされてしまった日には目も当てられない。なんということか。なす術が無い。

「ええんやで」
「誰も悪うないんやで」

聞き覚えのある優しい声が、聞こえたような気がした。
もちろんそんなわけはない。


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