ネット世論ってなんだろう


私は、弾劾のプロセスとネットの性質に戦慄したんですよ - シロクマの屑籠

なんか読んでたら色々思うことがあったので思いつくまま。

 

 デモやストライキのような手続きを取らず*1、署名活動のような手続きを行ったわけでもない。そういうの一切抜きに、ネットでこだましている声が増幅しあい、勝手に繋がり合い、ひとつのイシューに深いメスを入れる――そういう一連のプロセスを怖いと感じたんです。そんな事態を引き起こす現在のインターネットアーキテクチャもおっかない。手続きを踏むことなく、なんら責任の所在も主語も明らかでもなく、これほど簡単に大きな“世論”ができあがるのかと。

 それこそ手続きや責任の所在が不明瞭なゴリ押し案件について、ネット上ではそれを揶揄したり遺憾の意を表明する書き込みが乱舞しております。確かにこういった形で大きな世論といわれるような固定観念が出来上がることは珍しいことではなくなってきたように思います。ネット世論と言われるものは否定的なものがほとんどですが、その“ネット世論”が巨大な剣へと姿を変えて伏魔殿に飛び込んで行くようなことはそうそうあることではありません。それはオリンピックという世界規模のイベントで全国民の関心事であったことが大きく関係していると思います。しかし、そもそも手続きや責任の所在が明確な世論というのがパッと思い浮かびません。ここがひっかかります。安保法案や原発問題などの国全体の問題然り、一般常識など身の回りの問題然り。そういった観念の形成について記憶を遡って行くのは、海に落とした指輪をサルベージしようというような途方も無さです。また、何処かの誰かに責任を取らせて解決するような問題だと大きな声で言えるほどの確信は私にはありません。

 本件は、ネットが無い時代でもかなり燃えたんじゃないかと思っています。とりわけ、ある種の週刊誌やワイドショーを賑わせたには違いない。でも、これが1980年代の出来事だとしたら「ある種の週刊誌やワイドショーを賑わす」以上の延焼はしなかっただろうし、国際イベントの決定プロセスをひっくり返すこともなかったんじゃないかと私は思っています。

 そうかもしれませんが、それが良いことなのかどうかはまた別の話です。今回の件がどうか、というのは置いといて、ひっくりかえさなかったから問題は無かったのだ、ということにはなりません。江戸時代では火事の際、火元となっている建物をぶち壊すことで延焼をくい止める。という話を思い出しました。

 マスコミをマスゴミと呼ぶ人がいます。確かにマスコミはモンスターかもしれない。でも、インターネット、それも名も無き思念が無数に集まった地縛霊としてのインターネットも、それはそれで恐ろしいモンスター、あるいは「地脈」じゃあないですか。それに、幾つかの週刊誌や幾つかの番組には、それぞれの格付けに応じたコンテキストがあり、およそ“世論”とはみなされないモノも存在します。なによりマスコミ各社は、不十分かもしれないにせよ、社会的道義的責任を問われる立場を含んでいるわけです。 ところが今回の件をはじめ、不特定多数が集まって増幅しあうインターネット上の“世論”には、そういったものが存在しません。結果として善をなすこともあるかもだけど、同じように悪だってなすかもしれないし、場をぶち壊しただけでフォロー無し、ということもあるでしょう。昔話に出てくる気まぐれな神様みたいですね、ネット世論とは。

    ネットと週刊誌やワイドショーなどと同列に見ているような印象を受けます。今回の件で改めてわかったのは、マスゴミと言われるメディアであっても表現に非常に気を配っているかということです。ネット世論と言いますが、あくまでも一人ひとりの意見の集積であってそれらを一つひとつ見ていけば、ネット世論と一括りにしてよいのかという思いが拭えません。


こんな記事もありましたが、

よくわかる、なぜ「五輪とリエージュのロゴは似てない」と考えるデザイナーが多いのか?(深津貴之) - 個人 - Yahoo!ニュース

この記事のコメント欄は大いに活気付いていますが、論点が理解できていない人、理解しようという姿勢が感じられない人、そもそも本文を読んでいない人というのが多く、また多数のコメントを残していることがわかります。思わず笑ってしまいました。こういったコメントがネット世論なるものを形成していると考えるとうすら寒いものがあります。私もこの件は否定的に見ていますが、こういったコメント主たちと十ぱ一絡げにされるのは本意ではありません。しかしこういった破壊衝動をむき出しにした意見群の大元となっているであろう根本的な不信感について、同情を禁じ得ないのも事実です。このなんとも言えない不信感は一体なんなのか。

 、、、ー略)だけど(現在の)インターネットは違う。「あのデザインクソだよねー」も「あいつ死ねばいいのに」も、リツイートやシェアやまとめサイトによって、簡単に増幅して、繋がりあってしまう。自分の端末から放たれた言葉がマジでもネタでも暇つぶしでもお構いなしに集積していって、殴られたら痛そうな権力のクラウドができあがっていくのです。それもまあインターネットの可能性のひとつには違いないけれども、その可能性が、人が人を弾劾し排除するようなデリケートな問題でさえ、さしたる手続きもないまま跳梁していく状況が、私には恐ろしい。 


こんな記事もありました。


「ヤフコメはひどい」? 「Yahoo!ニュース」のコメント欄、投稿者は男性が80%以上、40代が突出 - ITmedia ニュース

同機能はユーザーによる議論などを目的に運営されているが、差別的なコメントも投稿されているのが現状。同社は「『ヤフコメはひどい』と指摘されることもある」と問題があることを認め、新たな対策を実施していくという。

  ネットは子供でも馬鹿でも誰でも発言ができるから、こうなるのも致し方ないところです。教育のありかた問われているというか、その結果が現れているというか。これまで繋がりえなかったものが繋っていくようになったことで破壊力が無限に増していくというのは確かに恐ろしいことです。

これは「いじめ」の話になるのだと思うのですが。私は「いじめをなくそう」というスローガンを掲げることに、鏡を見て呪文のようにブスではないと自分に言い聞かせながら整形手術を繰り返すような違和感を感じています。まず大人の世界にもいじめがあることを認めなければいけません。それは子供の世界よりも圧倒的に多いのです。その多さ故、様々な名称で区別されるほどです。パワハラモラハラセクハラマタハラ、、、。さらに大人のそれは、より陰湿で根深いものであり、少なからず誰もが関わったことがあり、これから関わることになるかもしれない普遍的な問題でなのです。どちらに原因があるとかではなく、そういうものだ、と受け入れなくてはいけません。問題なのは「それをどうやってなくすのか」ではなく「それが起こった時にどうするのか」という手段です。

 私は、自分のことをそれなり野蛮な人間だと思っているけれども、インターネットという、従来の話し言葉や書き言葉を超越したメディアに接する際に、どこまで自分自身の野蛮性を投げ出して構わないのか、いよいよ考え込むようになりました。「罰せられるべき相手ならば、私達はネット上で煉瓦を投げつけたって構わない」って発想、あまりにも単純過ぎませんか。


不正と思われるような不透明さや不誠実と思われるような行動をうやむやにすれば、それらの行為自体はいつか忘れられて行くかもしれません。しかしそれらに抱いた不信感は、凝縮され心に黒い染みを残します。そういった染みが通信の進化により記録され、拡散し、不特定多数のそれと複雑に絡み合います。ネット世論なる実体のない凶暴な怪物を産み出される背景にはこのようなものがあるのではないでしょうか。それはこれまでの不透明で不都合な真実への逆襲なのかもしれません。組織の手法や法の運用など根本的な部分をその時々に素早く対応できる柔軟性が求められているのかもしれません。


通信の進化はこれからも私たちに多くの利益をもたらしてゆくのでしょう。その文脈から生まれたネット世論なる怪物の暴走と思わしき現象が負の効果しかもたらさないのかどうか、というのは結論を出すには早いのかもしれません。


いささか大袈裟

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